遠く離れていても誰かが元気に生きてる様子が分かる。とても便利な世の中だ。その誰かが酷い別れ方をした人物でなければの話だが。
「そんなに嫌ならこれでも読んだらどうだい?」
手渡されたのは難解な学術書と論文だった。確かにこれなら丸三日は余計なことを考えずに済む。
「さっすがゼノ先生、心得ていらっしゃる」
「読んだら感想を聞こうか」
「か、感想って……」
そんなかわいいものじゃない。ゼノと交わすのが激論にならないのを祈るばかりだ。少なくとも、今そんな気分にはとてもなれない。
「あのね、そもそもなんでこうなったか分かってる?」
「まるで僕のせいだとでも言いたげだ」
私のすぐ隣に腰かけたゼノは、そのまま無遠慮に手元のタブレットを覗き込んだ。よく見えるよう画面を彼の方に傾けると、久し振りに見る顔だと感嘆の声が返って来た。
関係ないとは言わせない。
何気なく眺めていたSNS経由で出てきた、実の弟の近況。
私の弟は、血を分けあった友人のような存在であり、共に切磋琢磨する良き好敵手でもあった。だがもう何年も会っていない。今後も会うことなんかないだろう。
喧嘩別れと言えば多少かわいく聞こえるが、弟とは縁を切った。そして、その原因を作ったのは私の隣に座る男だ。
いつからだっただろうか、弟がゼノに傾倒しはじめたのは。理由は何であれ、熱心に研究に励む弟を見るのは姉としても同業者としても頼もしかった。
しかし、彼が心酔する科学者、ゼノが選んだのは彼自身ではなく彼の姉――つまり私だった。
「私だってわざわざ見に行ったりなんかしないよ。ただ横の繋がりが、まだ……」
ああもう面倒だ、全部やめてしまおう。もっと早くこうするべきだった。
「幸せそーな顔」
写真の中で笑っている弟と、その婚約者。
その婚約者に、彼が自分が気に入らない相手にどういう態度を取るか教えてあげるのは簡単だ。
でも、その選択肢を選ぶことは絶対にない。過去に、醜い骨肉の争いを繰り広げたような男であっても、好きな人のことは家族のように愛せるのだと思ったからだ。
「誰かを罵った口で、誰かを突き放した腕で、人は違う誰かを愛してる。こんな形で教えられるなんて」
別に、私だけが一方的にやられたという話ではない。弟から私に向けられる感情の中にあった嫉妬心が日に日に増していくことにも、それが憎しみへと変わっていくことにも、私は気付かないフリをした。
私の存在そのものが弟を脅かすようになっていたのに、私は彼を顧みなかった。
「戦争ってこういうことだね」
欲望、嫉妬、怒り。好きとか嫌いとか、正しいとか間違ってるとか。そんなものを何万年も振りかざして繰り返して、私たちはその上に立っている。いがみ合ったところで私たちは皆おなじなのだ。
「おお、それこそが人間の歴史であり本質じゃあないか!」
たった今閃いたかのように言わないで欲しい。喉から出かかった「よく言うよ」という嫌味を飲み下し、ソファに背を預けた。
やるせない。痛くも痒くもなくなった額の傷痕からまるで血液のように虚しさが溢れ、滴っていくようだった。
弟との別れ際にできたそれをなぞる癖は未だに治らない。これをやるたびにゼノが眉を潜めてくれるものだから、どうにも止められないのだ。
「だがそんな傷を負わせるつもりはなかった。それだけは本当だ」
普段は前髪で隠している傷痕は、私とゼノを結び付ける呪いの印のようなものだ。
この傷を初めて目にした時、そして傷痕に触れるのを私に許可された時のゼノの顔ときたら。それは私が抱いていた深い失望を消し去るには充分だった。
だってあまりにも可愛いじゃないか。上手に引いていたつもりの操り人形の糸が、自分自身に絡まってることにも気付いていなかったなんて。彼ともあろう人が、だ。
「弾みでできたようなものだから、これは。まぁ悪いことばかりではなかったみたいだけど?」
「……親友にも言われたよ、見事に跳弾をくらっているとね」
「うまいこと言う」
現在の弟はというと、全く別の場所で別の仕事をして暮らしいている。そして先ほど私の目に入ってきた情報によれば、伴侶を得て案外幸せに生きているようだ。
一方、姉の私は弟を蹴落とし未だゼノの隣に居座る人でなしである。
今更どうこうしようだなんてお互い考えてなどいない。それでも、姿が目に入ればあの時の痛みが鮮明に甦る。自分の進んできた道が果たして正しかったのかと思い更ける。
「あのさ、ゼノ。……欲しいものを手に入れるのに自ら悪魔になる必要は、あったのかな」
自問自答のようなものだった。これから先、私は幾度となくその答えを求めてしまうだろう。
「悪魔にでも何にでもなるさ。君が、相応しくない場所で朽ち果てていくのを黙って見ているくらいなら」
ゼノは最初から迷ってなんかいなかった。彼は私と弟が互いに争うよう仕向け、ただ一つと決まってる答えを導かせた。
自身を異常なまでに慕う私の弟の前に功績と名誉という餌を吊るして誘惑するのは、さぞ容易かったに違いない。
この人がたった一滴垂らした劇薬が、私たち姉弟の人生を変えた。
「理解しただろう。彼はもう、僕たちのことなど忘れて生きていける。……では逆の立場に君がいると仮定しよう、僕が選んだのは君の弟だ。名前、君はどうする?」
後ろから謗られようと、心を切り刻まれようと、私という人間自体が変わったわけじゃない。
答えが分かりきっているのにわざわざ相手に言わせるのは、彼の悪趣味が今なお健在である証だ。
「関係ない。選ばれなくたって蹴落とされたって、何千年かかろうと諦めない。私は私の力で欲しいものを必ず手に入れる。悪魔の手だろうが何だろうが取ってやる」
「まさにそれだ!その貪欲さこそ名前にあって彼にないものだ。僕が欲しかった、君だ」
どちらがより優秀で欲深いか。数年に渡る実証実験の結果が望ましいものであったことが大層嬉しいのか、ゼノは恍惚とした表情を浮かべている。
「名前、もう少しこっちへ」
私が動くより先に、ゼノの指が前髪をかき分けていく。そのまま反対の手で腰を引き寄せられた。彼はせっかちである。
「珍しい、今日はお休み?科学の時間は」
「まさか。この後たっぷり時間を取るつもりだよ」
満面の笑みを浮かべられ、徹夜コースを悟る。
「分かった。覚悟しとく」
振り返って後悔する隙さえもこの人は巧みに奪っていく。
とっくに暗くなったタブレットの画面も、彼に渡された仕事も、順番に片付けて進まなければ。
「おなじじゃないか。僕も、そして君も」
今はただ、この身に刻まれた呪いの上に祝福が落とされるのを待つのみだ。
2021.10.1 Devil's blessing
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